感じて、考えて。

やたら考えやたら書きます。

お知らせ(noteへ移行)

古元素です。今回はお知らせとしての更新です。

 

今回の投稿を持ちまして、古元素のはてなブログ「感じて、考えて」は終了させていただきます。今までブログを閲覧していただき本当にありがとうございます。感謝してもしきれません。

 

ここまで読んで、私の文章のファンの方がいましたらこう感じたことでしょう。

「もう古元素の文章読めないの!?」

答えは否です。Noteという形で古元素は書き続けますし、このブログも閉鎖するわけではありません。ただ私が執筆するサイトが変わるというだけです。もしnoteが心地よくなかった場合は、戻ってくるかもしれませんし。

 

以下、なぜnoteへ移行するかの説明です。

 

最近、noteの投稿を読むようになりました。noteとはてなブログの比較サイトをたくさん閲覧しました。noteは文章を書く人間向きで、はてなブログは「ブロガー」としてのスキルを上げ収入を得たい人向き。そしてnoteの方がSNSでの拡散率が高いこと。この二点を知りました。確かにtwitterを見ていると、はてなブログよりもnoteの方がエッセイのような形式の投稿が多いですし、TLに流れてくるのは圧倒的にnoteですよね。

 

それらを踏まえて、私は何がしたいのかもう一度考え直しました。私は自分の文章力向上を図りたい。私の文章を読んで何かに気づき、考えてくれる人が一人でもいたらいい。そう思って文章を紡いでいます。すると、はてなブログよりもnoteの方がいいのではないか、noteで自らの文章力で勝負すべきなのではないか、そう思いました。

 

これからnoteで自分の力を試していきたいと思いますので、私の文章や思想が好きだという皆様、noteに移行しても読んでいただけると光栄です。

 

http://www.私にとっての「書くこと」とは(note初投稿記念)|古元素.com/ @vintagelementl

 

古元素

無数の挫折を超えて

 

はじめに

私は基本、努力が報われた経験に乏しい。挫折だらけである。自分自身懸命に努力しているはずだが、報われない。私も愚かではないので、薄々気づいている。自分の努力が足りていないということと、置かれた場所で咲けているということ。そして全ての努力が報われていないわけではないことに。私が人生通して他者から言われたこと、経験と共に述べていきたいと思う。

人生の振り返り①(挫折編)

小学生

友人の誘いでバスケットボール部に所属していた。友人はバスケットボールのセンスがあって、かつ努力家だった。ただ、自分のレベルを他者に求めるところがあった。私は球技のセンスに乏しく、上達のために部活が休みの日でも母に協力を乞い練習をした。

 

ある日、試合形式の練習をした。私はボールを取りこぼし、持っていたボールをカットされ、チームの足を普段以上に引っ張った。その後友人が涙ながらに言ったことは今でも忘れない。

「お前のせいで負けたんだ。」

すこぶる落ち込んだ。私だって全く努力をしていないわけではない。だがうまくいかない。ただ、逃げる理由を他人のせいにだけはしたくなかった。卒業まできちんと向き合った。

中学生

中学生になっても、他の部活に入る勇気もなかったためバスケットボール部に所属した。上達しないバスケスキル。部活面では相変わらず苦しんだ。ただ小学生の頃と変わったことは、成績の順位が明確になったことだ。入学後すぐの定期考査では全体で十番内に入らないくらい。その次は学年トップ。自分が勉強ができる方だと知った。それからは勉強が楽しかった。夢中で勉強した。母には十番内から落ちたら部活をやめるよう言われた。落ちることは三年間でほぼなかった。

 

高校受験の前のことだった。クラスで苦手な男子に言われたことがある。

「お前は勉強の才能がない。完全に努力。せいぜい地元の進学校レベル。勉強の才能があってお前より勉強してないだろう〇〇は、熊本トップレベルの高校に行けそう。」

善意の解釈をすれば、私の努力を褒める発言なのかもしれない。だが私にはどうしても、私自身を否定されているようにしか思えなかった。自分のことを棚に上げて、私と第三者を比較する。その行為自体が愚の骨頂でしかない。今昔共に努力を惜しまない例の比較相手に対し、こんなことを言われたと八つ当たりする自分にも嫌気が差した。

高校生(勉強編)

昔からの憧れと文武両道を考慮した結果、地元の進学校に入学した。私の地元は、家族全員がその進学校というケースが多々ある。我が家も同じだ。高校の同窓会会報が三冊(私、父、叔母)届く家族である。由緒正しい高校に三年間身を置き、中学の途中で出会った陸上競技と勉学に励んだ。

 

人生を通して憧れていた大学があった。私は物心つく前から読書が好きだった。幼稚園時代、本にまつわることを学ぶなら文学部だと知った。当時熊本市内に住んでいたこともあり、私は熊本屈指の文学部に行くのだと思っていた。だが高校に入ってから初めての模試で、その大学の合格判定はE判定だった。高校入学で安心した私は怠慢していたので、勉学に励まねばと痛感した。

 

駅伝や体育祭に打ち込みながら迎えた受験期。私はその大学の推薦入試受験枠を頂いていた。先生方から「推薦は博打」というお言葉をかけていただいたが、私は推薦に賭けていた。受験期になっても私の成績は上がらないままだったからだ。推薦入試については、人生でトップレベルに努力した。将来の夢に基づき書いた志望理由書の添削、筆記試験対策のための社説六社読み(全国紙地方紙読み比べ)に、放課後や昼休みの面接練習。推薦のことしか考えられなかった一か月だった。

 

推薦入試当日。筆記試験は何とか書き終えた。問題は面接だった。そこで言われたことも一生忘れないだろう。

「他の学科の方が向いてるよ。」

「あなたの話はもういいです。面接を終了します。」

幼稚園時代から憧れていた大学、高校三年間憧れた学科の教授に、この言われようである。面接室で泣かなかった自分を褒めたい。合格発表前日に心ない友人から「期待するな」と言われたのも、合格発表の際は携帯持ち込み不可という決まりも無視した。学校のトイレの個室に入り番号を確認する。もちろんない。共に推薦入試を受け、何も対策をしていないと涼しい顔をしていた友人の番号はあった。その後担任に渡された合格発表が印刷されたプリントは泣きながら破り捨てた。推薦対策、特に面接練習では顧問の先生から教頭先生まで十人の先生にお世話になったし、推薦枠を与えるのは校長先生なので、昼休みを利用して行脚に向かった。職員室や校長室では、多くの先生方に協力してもらったのにと思うと涙が止まらなかった。まだ前期や後期と二度もチャンスがあると励ましを頂いた。切り換えないとと思ったが、その日中場所を問わず泣き続けた。

 

何とか切り換えセンター試験対策に集中し、迎えた年末。志望校を会場とした模試が行われた。弁当を食べながらふと友人が私に何かを告げようとした。瞬間、私は嫌な予感がし、思わず口にした。

「私は勉強してるのに成績悪いよねって言いたいんでしょう?」

友人は気まずそうな顔をして謝りつつも頷いた。言わせる私も大概だが、まず口にする辺りに嫌悪感を覚える。しかも場所は私の志望校。それも相まってダメージは深かった。迎えたセンター試験当日は、彼女の言う通り振るわず、得意科目で大幅に失敗した。志望校の判定どころか、推薦に落ちた際に担任にここなら合格圏内だと薦められ知った大学の判定さえもEだった。同級生が大声で判定結果を楽しそうに話す。その声さえも憎むと同時に、そんな自分が嫌いになった。

高校生(部活編)

中学の途中、体育の先生に見染められ、中学二年生と三年生の夏から冬にかけて、駅伝の練習に参加していた。陸上競技に惹かれていった。高校の選択も、昔からの憧れや勉学もあったが、地元で一番陸上や駅伝に力を入れていることを重視した。中学時代、陸上は本当に楽しかった。努力すればするほど記録は縮んでいった。人生で初めて努力が報われることを知った。それが高校でも続く、高校では陸上一本にするからもっと楽しいだろう、そう思ってやまなかった。

 

序盤は楽しかった。故障に悩む時期もあったが、走れば走るほど記録は縮んだ。漫画の世界にしか存在しないと思っていた「セカンドウィンド」も経験した。高校一年生の冬に行われた駅伝では1区、のちにキャプテンとなり、高校の合格発表翌日から共に努力していた友人はアンカーを務めた。二人でスタートとアンカーを務めることは、ずっと約束していたことだった。

 

全ては、大会後母に言われたことから始まった。

「あんたいつもと走り方全然違ったよ。どこか怪我してない?」

確かに脚に若干の違和感を覚えていた。すぐにテスト期間に入り部活が休みになるから、安静にした。テスト期間に全く走らないのは初めてだった。テスト開け最初の練習は10kmペース走。今までは最後まで先頭に食らいついていた。しかしその日は違った。5kmを迎えた途端、尋常でないほどに息が苦しくなった。何とか5km走ったが、走り切った後は過呼吸になった。唐突の不調は数か月続いた。

 

数か月経っても治らない。そういえば生理が半年以上訪れていない。過度の食欲なのに、体重の減少が著しい。それが気がかりだった。もしやと思い母と産婦人科に向かった。お医者さんはこう告げた。

「当院に来られる患者さんには、甲状腺に異常がある方が何故か多い。紹介状を書くから糖尿内科を受診して。」

結果、甲状腺機能亢進症(バセドウ病)だと分かった。全てバセドウ病の症状だった。お医者さんは私に、甲状腺の数値が安定するまで運動をしないよう伝えた。最長半年かかるとのことだった。当時高校二年生のGW明けだったので、その半年間には2度目の高校総体や新人戦、夏の合宿があった。今からという時期に何もできない。私にとって走ることは、人生で初めて「自分のために」努力したもので、それが100%返ってくる唯一無二の存在だった。私から走ることさえも奪うのかと、甲状腺を何度恨んだことだろう。

人生の振り返り②(切り替え編)兼まとめ

この無数の挫折を通して、様々なことを学んだ。まず私には球技が向いていない。それを踏まえ中学時代には、オフィシャル(バスケの審判補佐)の仕事が全てこなせるようにした。試合の際もチームの記録員を自ら勤めた。チームに少しでも貢献するにはどうすべきかを考えた、私なりの結果だった。

 

勉強に関しては、根本的に努力不足、または勉強法が誤っていたように思う。センター試験対策を振り返ってようやく気付いた。それを踏まえ、受験直前に担任から薦められたもののE判定だった受験校の対策をした。結果合格。勉強法をようやく知れた気がした。今の大学ではゼミに苦しみながらも、英米文学の魅力を知った。それは本来の志望校ではできないことだ。

 

陸上に関しては、バセドウ病から復帰後何とか駅伝メンバーに返り咲いた。前年1区を務めた駅伝では2区だったが、三人抜きを達成した。走ることは、私を完全には見捨てていなかった。

 

私は今、就職活動の最中である。中学時代から憧れ、大学の推薦入試で話した際には否定されてしまった夢を抱き続けている。その会社へのエントリーシートを友人に読んでもらった際には「熱量がすごい」というコメントまでいただいた。最大限の努力や熱意をぶつけるときだ。その想いが叶うといいのだが。

 

 

 

文学部の存在意義

 

はじめに~文系批判はやめて~

文学部なら誰もが何百回も聞かれた質問があるだろう。私も聞かれた。

「文学部って何するの?」

「文学部って将来何になるの?」

 

この質問は自らの専攻する学問を優位だと解釈し、文学部を下に見ているようにしか思えない。とても腹が立つ。今回の私のブログを通して、文学部の人は解答の参考にしてもらえればと思うし、その他の方も文学部に目を向けてもらえたらと思う。

 

質問主は大多数が理系。それもそのはず。理系は勉強内容が仕事と密接に繋がっていることが多いからだ。様々な就活サイトを閲覧していて知ったのだが、文系の就活は性格重視、理系の就活は勉強内容重視である。以下参考URL。

rebe.jp

このサイトを見ていても分かる通り、「理系は勉強が大変な分就活が楽。文系は大学で楽をしてきた分、就活が困難。」らしい。全ての就活サイトがこうほざいている。私はこの言い方を大変憎んでいる。私は理系優位社会のような扱われ方、文学部等々の教養学部を撤廃しようという動き、全てが嫌いで仕方がない。それに理系でも就活は困難な場合もある。勝手に判断することに疑問を投じたい。怒りに任せてキーボードを叩いてしまった。ここからは感情を抑えようと試みる。

物腰は柔らか感情は出さずにスタイリッシュに振る舞う

それが大人というもの

n.t. / ポルノグラフィティ

 

本題~文学部の意義~

ようやく本題に移る。私が思う「文学部」について、実体験と共に述べたいと思う。結論から言うと、

  • 人間を知り、他社の感情をできる限り汲み取ること
  • 学んだことに興味を持ち考え、自らの幅を広げること
  である。

 

長い文章が読みたくない!と思われる方はここで読み終えても構わない。以下は私の思い出話かつ裏付け文である。

 例~私の大学生活~

入学当初~疑問期~

大学に入学した際、私も疑問であった。イギリスやアメリカの作家について学び、英語のルーツを学び、言語の仕組みを学び、英語教育の昨今の状況を学ぶ。全く意味がないように思えた。社会人になっても全く意味がないように思えた。

 

同時に理系の人間からそれを質問されることは、現在同様いら立ちを覚えた。しかし当時は捉え方が違ったように思う。当時苛立っていた原因の大多数を、羨望が占めていたからだ。私は小学校三年生のそろばんの授業から、算数の授業を泣きながら受けるようになった。当時使っていた啓林館の教科書にある「ドルフィンのまほう学校」という発展問題を解く授業は苦痛でしかなかった。だからこそ、理系科目を得意分野とし、将来活かせる勉強をしている理系の人間への羨望が強かったのだろう。

 

ある日美容室に行った。私は美容師さんと仲が良かったので、常に会話が弾んでいた。その日はこんな質問をした。

「高校を卒業されて美容学校に入って、そのまま美容師になられたんですよね。私はそれが羨ましくて。私は将来に100%活かせる勉強をしていなくて、将来が全く確約されていない。小さい頃から文章や本が好きで、文学部の存在に憧れたというだけで文学部に入ったんですよね。実際美容学校に入られてからいかがでした?」

美容師さんはこう答えた。

「美容系にしか就職できないと確約されていることで、向き不向きが明確に出るよ。私は偶然美容に興味があってかつ向いていただけ。興味があっても向いてないと分かった友達は皆やめたよ。」

美容学校に入った時点で仕事が絞られるのだ。そういえば私は文学部に入る決め手の一つに、「あと四年間で自分の才能を確かめよう」と挙げていたことを思い出した。文学部や大学生活で多くを吸収して、社会に羽ばたかないとと改めて決心した。

 二年次~ゼミや新しい読書との出会い~

二年次の後半に差し掛かると、授業の中にひとつだけ、興味をそそられるものがあった。米文学だ。米文学とは言葉の通り、アメリカの作家やアメリカ英語で書かれた小説や詩のことだ。アメリカは英語の母国であるイギリスよりも圧倒的に歴史が短い。その中でも様々な差別や風潮があり、個性的な作家が山のようにいる。話の内容も、人間関係が複雑に絡み合うものが多い。いわば昼ドラ。三年次のゼミ選択でもその先生のセミを第一ゼミとし、今年度も米文学で卒業論文を執筆する。

 

その先生の授業やゼミでは、作品の中に着眼点をひとつ挙げ、その中で論文を書く形式が主だった。私もそれに倣い着眼点を見つけ、多数の参考文献を探し、論文を執筆した。すると他のゼミ生は、私とは全く異なる着眼点だったのだ。確かに十人十色という言葉もある通り、人間の個性は様々である。それを強く感じた。

 

ある企業のインターンシップに参加した際に、人事の方にゼミの話をした。その際「読書も人間観察のひとつ」と話された。「登場人物や作者、それを読んだ方、三パターンの人間観察ができる」と。それ以来、小さい頃から大好きだった読書の捉え方も少し変わった。昔から読書はドラえもんひみつ道具である「どこでもドア」だと思っていた。私という人間から、様々な登場人物になれる。そう考えていた。その話を受けて、趣味である読書でもあらゆるところに着眼点を置いた。作者の文体や文章の構成法。作者の他作品を読んで作者の意図の予測。登場人物への感情移入。私と同じ作品を読んだ他者の意見。様々な観点から作品を捉えるようになった。より理解が深まるようになった。それを述べた私のブクログはこちら。

https://booklog.jp/users/vintagelementl

文章を読み様々な観点から物事を考えるうちに、関心が多岐に及んだ。アメリカの南北間の格差、南部の社会制度、ジェンダー。国内文学でも心理学や哲学、法学や科学。いつかは裁判の傍聴に参加したいと考えるほどだ。

まとめ

こうして、文学部の役割、教養の役割を知った。文学を専攻することまた教養を得ることで、文学に留まらず様々な分野への興味を抱くことができ、自らの幅を広げられる。他者に感情移入し、気持ちを汲み取れる。確かに理系分野を専攻し、何かを突き詰めることも社会貢献にも繋がり、自らを広げられる。それを他者に広く、分かりやすく伝えることを考えると、文系の出番なのではないか。文系の人間は決して用済みではない。世界全体の視野を広げることを考えると、むしろこれから重要な存在となりうるだろう。文理共々、共栄していかねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

メンズメイク

www.lalabegin.jp

今回のブログを読むにあたって、こちらの単語を押さえていただきたい。

プチプラ:ドラックストアやドン・キホーテで購入可能な化粧品。安価。

     例:キャンメイクニベア、ビオレ 他

デパコス:デパートコスメ。百貨店などでしか購入できない化粧品。高価。

     例:シャネル、シュウウエムラ 他

 

百貨店やショッピングセンター、ドラッグストアやドン・キホーテを歩くことが好きだ。特にコスメコーナー。女性たちは皆、真剣かつ楽しそうにコスメを眺めている。

 

ある日、私はデパコスコーナーを歩いていると、ある父子を見つけた。パートナーである女性がデパコスを楽しんでいるのを横目に、疲れた表情の男性とそのご子息。考えてみると、百貨店などのデパコスコーナーは、周辺に男性が楽しめる場所が少ないように感じる。一階の化粧品コーナーにいる状態で、父子が五階~六階の児童服売り場というのも微妙だ。

 

そんな中、私の隠れた趣味である「ファッション誌乱読(私は定期的に購読しているファッション雑誌が多数あることから生み出された名前)」をしていると、ある特集が目についた。メンズメイク特集だ。メンズ向けに開発されたものからカップルで共有できるコスメを、プチプラからデパコスまで多岐に渡り紹介されていた。上記のものだ。

(この雑誌の服装がとてもタイプなので、気になった方は是非ご一読いただきたい。)

 

 

素晴らしいなと思った。これが浸透していけば、いつかは化粧品売り場の外で苦い顔をした男性がいなくなるかもしれない。男女でメイクを楽しめるかもしれない。そう感じた。女性たちも男性を待たせるのは少し後ろめたいはずだし、私自身も男性との買い物では化粧品売り場には寄り付かない(その代わり女子同士だと長時間滞在)。以前も紹介したが「美容は自尊心の筋トレ」である。男女ともに自尊心の向上にもつながるのではないか。この文化がもっと広がることを願うのみだ。

 

後記

これを読んだ男性陣がきっと、メイクしないといけないの?などと思ったかもしれない。私の言い方も悪いのだが、そうではない。ここで私が言いたいのは、男女で楽しめるものが増えるといな、ということである。悪しからず。

∠RECEIVER

今日で熊本地震から4年が経つ。熊本城も復興が進み、熊本は随分と復興していると思っていた。

 

否だった。私は益城阿蘇のことを見ていなかった。今日の新聞に載っていたインタビュー欄に、対象の市町村に住む多くの人が「復興していない」と答えていた。震災以降偏頭痛の方や手術のできない病、精神的な病に侵されている方、仮設住宅に悩む方の存在を知った。

 

私が震災復興に関してできることは、こうして文章を紡ぎ風化を防ぐことだ。大好きな地元である熊本の情報に詳しい私でさえ知らないことがある。他の方、ましてや県外の方はもっとではなかろうか。

 

ここで、タイトルにしている歌を紹介したい。ポルノグラフィティの∠RECEIVERである。東日本大震災後のライブツアー「ポルノ丸」にて、お決まりだった彼らのアンコールラスト曲「ジレンマ」を変更し歌われた曲だ。この曲には生々しい地震の表現がある。しかしこれを風化してはいけない。今この曲をせず、震災から目を逸らすわけにはいかない。彼らはその一心で、賛否両論あったであろうが演奏した。

 

僕たちがコントロール

できることはほんの少し
ほとんどの出来事には

関われないとしても
この星の裏側でも僕たちの足下でも
起こりうる出来事から逃げない
受信者(∠RECEIVER)でいたい

∠RECEIVER / ポルノグラフィティ

∠RECEIVER

∠RECEIVER

 

私を含め全ての方ができることはふたつ。大切な情報が色褪せないように尽力すること。その情報を受け取る、つまり受信者であり続けること。色褪せないように尽力することは、全ての人にはできないかもしれない。ただ、忘れないこと、情報から目を逸らさず「受信」し続けることは、できるのではないだろうか。私たちは「受信者」でなくてはならない。

 

走ることについて語るときに私の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2010/06/10
  • メディア: ペーパーバック
 

無限に積み上がる、心中の積読(読みたい本リスト)のひとつ。「走ること」と「村上春樹」の融合。どちらも私の大好きなもの。絶対に面白い。読みたい。

 

では本題へ。中高と陸上競技や駅伝に熱中していた私には、何度も尋ねられた質問がある。「どうして走ることが好きなの?」今回、その回答を、私の思い出と共に語らせていただきたい。

 

結論から言うと2つ。「人の心を一番動かせるスポーツであるから」「初めて「人」ではなく「自分」目線になって努力できたものだから」

 

始まりは小学校一年生。当時、母の勧めにより運動クラブに通っていた。練習の一環として、メンバー全員で体育館の周辺を走っていた。スピード強化の日は一周、持久力強化の日は三周。着順は、一周の日は下から数えたほうが早く、三周の日は常に一位。母や先生曰く、「一周の時と三周の時で、走る速度が全く変わらない」そうだ。

 

その五年後、運動会で800ⅿ走に出場した。選考会の末決まった出場メンバーは、私含むバスケットボール部全員と他数人。バスケットボール部の皆は本当に速かった。私は、部員以外には負けたくない。いや部員にも勝ちたい。そう考えて走り始めた。後半に差し掛かり、バスケ部が群を抜いていた。私はその一番後ろ。しかし、前を走っていた部員の一人が遅れ始めた。ラスト一周の後半、私はそこに食らいついた。彼女も負けず嫌いなので、私に気づいてペースを上げた。私たちは、勝つか負けるか予想できないデットヒートを繰り広げた。特有の喉の痛みや周囲の声援を感じつつ、疲弊しきった身体に鞭打ち脚を回した。その結果、私は彼女を追い抜いた。球技や短距離が苦手で、体育の授業では常に劣っていた私が、運動の楽しさを知った瞬間だった。

 

その後家族のもとに向かった。普段泣くことのない家族が私の走りを見て涙を流していた。走ることがここまで人の心を動かすことができるのかと驚いたことは、一生忘れないであろう。

 

大きな転機となったのは中学時代。球技が得意でないことを痛感してはいたものの、私はまたもバスケットボール部に所属していた。先輩方がとても強かったので、練習はハード。夏休みには練習後に4㎞走ることが義務付けられていた。その際だった。私は県トップレベルの先輩方と張るか、追い抜くくらいに走れたのだ。それを見ていた体育の先生に、翌年に駅伝メンバーに選出していただいた。夏休みに毎日30分運動場を走り続けたのち、3~4㎞のジョグ。過酷ではあったが、その年の市中体連では4区、3年次の市中体連では1区、県中体連ではアンカーとして走り、上位入賞に貢献できた。バスケの際には常にチームの足を引っ張っていたが、駅伝ではチームに貢献。スポーツで何かに貢献した経験は初めてだった。

 

陸上と勉強に打ち込みたいと入学した高校では、友人の誘いもあり合格発表の翌日から陸上競技部に入部した。友人は私の人生の中で一番熱く努力家。のちに彼女が長距離ブロックのキャプテンとなった。私は彼女を慕い尊敬しつつ、いつかは越えたいと闘志を燃やしていた。彼女も同じだったであろう。「駅伝では二人で1区とアンカーを努めよう。」部活後下校している際によく話していた。彼女の存在はもちろんではあるが、一番は自分の記録更新。そのために練習で手を抜くことは一切なかった。休みである日曜日やテスト期間も欠かさずランニングや筋トレに励んだ。「人を喜ばせたい」という気持ちが大きく、常に人のことを考えて行動していた私だったが、陸上競技によって主体的になることを学んだ。

 

忘れられないのは高校1年の県高校駅伝前のタイムトライアルで4㎞区間を走ったこと。2~3㎞や3~4㎞のラップタイムも、1000m走として走るときよりも速い時間を記録した。つまり、異常なほどの好調。4㎞どころか、無限に走っていたい。どこまでも走りたい。きついけれど、それを突き抜けて気持ちいい。黒子のバスケで言う「ゾーン」、ランニングの用語で言うなら「セカンドウィンド」を経験した。あれほどに気持ち良かった走りは、もうない。

 

迎えた県高校駅伝。タイムトライアルでの走りが認められ、4㎞区間である2区に選出された。コースは益城空港線。長い登り坂を延々と登るコースだった。田舎道であるはずなのに、沿道にはすごい数のお客さんがいた。保護者だけでなく、駅伝ファンも。私や私の高校のことを知らないけれど、たくさんの声援をいただいた。ユニフォームに書かれた学校名を見て、色んな略し方をし、檄を飛ばしてくれる方々。小学校の頃に感じたことを再確認した。たくさんの人が、私の走りに心を動かしている。長距離走よりも人の心を動かすスポーツは、決してないであろう。

 

走ることを通して、ここには書かなかったがたくさんの苦痛もあった。高校時代は頑張るほど怪我や病気に苛まれ、体重が増加し中学の記録を越せなかった種目もある。しかし、他の誰でもなく私のために努力し、それを通し人の心を動かせる。こんなに楽しいことが他にあろうか。そう思わせてくれた「走ること」は、一生大切にしていかなければならない。

 

 

 

 

感じて、考えて ~on radio~が生まれるまで

始めた理由(ブログと二刀流)| #感じて、考えて #ブログ #考える #トーク #上達 #知る #Radiotalk https://radiotalk.jp/talk/254927

 

おしゃれは人の為? part2| #感じて、考えて #おしゃれ #男性 #女性 #好きな人 #Radiotalk https://radiotalk.jp/talk/254936

 

お久しぶりです。古元素です。ついにですね、

ラジオ始めました!!!!

あ、中の人が出てますね。古元素の中の人モード。

 

気を取り直しますね。

 

ラジオでグダグダ話しましたが、今回、なぜ私がラジオを始めたかと言うと、

①好きである「話すこと」への苦手意識を克服したいから

②多くの人に、もっと何かを考え、感じてほしいから

です。

 

まず①から説明しますね。

 

私自身、昔から文章や文字だけならず、話すことも好きでした。しかし就職活動を通し、これは私の相当な強みだと気付いたのです。説明会やインターンシップでたくさんの人と出会うのですが、皆からこう言われるのです。「初対面でこんなに話せる人初めて」「一度出会ったら忘れられないくらい印象に残る」

 

驚きました。私が普通に話しているだけで、多くの人に多大なる影響力を及ぼしていたようです。これは強みにしようと思いました。

 

しかし実際、面接の場面では緊張してうまく話せません。文章だと一度間違ったり、この言い回しは好きではないな、と感じたらすぐに削除できます。口頭ではそれができません。話すことは瞬間作文であり、一度話したら取り消しはできません。話しているとたまに、先が見えない道をひたすら走っているように感じます。今回ラジオをすることで、それを解決できたらと思っています。

 

次に、②について話しますね。

 

私自身、人に何かを感じてほしい、考えてほしい、と思いながらブログを綴っています。全ての人を変えたい、影響を与えたい、とまでは言いません。一人でも私の文章を通じ、何か「無知」に気づき「既知」にし、さらに考えてくれることを願っています。しかしブログだと、文体でしかオリジナリティを出せません。ラジオだと声になるので、声色など様々な箇所で「私」「人間味」を感じられると考えるのです。

 

詩人がたったひとひらの言の葉に込めた

意味をついに知ることはない

そうそれは友にできるならあなたに

届けばいいと思う

 

アゲハ蝶 / 

 

ラジオを既にお聴きになった人がいらっしゃるかもしれませんが、本当にへたくそです。わかってます。これから上達します。もう少し待ってください。

 

ラジオでも、ブログでも、よろしくお願いします。

 

追伸

もし、私に書いてほしいこと、話してほしいことありましたら、リクエストしてもらえたらうれしいです。DMでもリプでも何でも構いません。お待ちしています。