感じて、考えて。

やたら考えやたら書きます。

文学部の存在意義

 

はじめに~文系批判はやめて~

文学部なら誰もが何百回も聞かれた質問があるだろう。私も聞かれた。

「文学部って何するの?」

「文学部って将来何になるの?」

 

この質問は自らの専攻する学問を優位だと解釈し、文学部を下に見ているようにしか思えない。とても腹が立つ。今回の私のブログを通して、文学部の人は解答の参考にしてもらえればと思うし、その他の方も文学部に目を向けてもらえたらと思う。

 

質問主は大多数が理系。それもそのはず。理系は勉強内容が仕事と密接に繋がっていることが多いからだ。様々な就活サイトを閲覧していて知ったのだが、文系の就活は性格重視、理系の就活は勉強内容重視である。以下参考URL。

rebe.jp

このサイトを見ていても分かる通り、「理系は勉強が大変な分就活が楽。文系は大学で楽をしてきた分、就活が困難。」らしい。全ての就活サイトがこうほざいている。私はこの言い方を大変憎んでいる。私は理系優位社会のような扱われ方、文学部等々の教養学部を撤廃しようという動き、全てが嫌いで仕方がない。それに理系でも就活は困難な場合もある。勝手に判断することに疑問を投じたい。怒りに任せてキーボードを叩いてしまった。ここからは感情を抑えようと試みる。

物腰は柔らか感情は出さずにスタイリッシュに振る舞う

それが大人というもの

n.t. / ポルノグラフィティ

 

本題~文学部の意義~

ようやく本題に移る。私が思う「文学部」について、実体験と共に述べたいと思う。結論から言うと、

  • 人間を知り、他社の感情をできる限り汲み取ること
  • 学んだことに興味を持ち考え、自らの幅を広げること
  である。

 

長い文章が読みたくない!と思われる方はここで読み終えても構わない。以下は私の思い出話かつ裏付け文である。

 例~私の大学生活~

入学当初~疑問期~

大学に入学した際、私も疑問であった。イギリスやアメリカの作家について学び、英語のルーツを学び、言語の仕組みを学び、英語教育の昨今の状況を学ぶ。全く意味がないように思えた。社会人になっても全く意味がないように思えた。

 

同時に理系の人間からそれを質問されることは、現在同様いら立ちを覚えた。しかし当時は捉え方が違ったように思う。当時苛立っていた原因の大多数を、羨望が占めていたからだ。私は小学校三年生のそろばんの授業から、算数の授業を泣きながら受けるようになった。当時使っていた啓林館の教科書にある「ドルフィンのまほう学校」という発展問題を解く授業は苦痛でしかなかった。だからこそ、理系科目を得意分野とし、将来活かせる勉強をしている理系の人間への羨望が強かったのだろう。

 

ある日美容室に行った。私は美容師さんと仲が良かったので、常に会話が弾んでいた。その日はこんな質問をした。

「高校を卒業されて美容学校に入って、そのまま美容師になられたんですよね。私はそれが羨ましくて。私は将来に100%活かせる勉強をしていなくて、将来が全く確約されていない。小さい頃から文章や本が好きで、文学部の存在に憧れたというだけで文学部に入ったんですよね。実際美容学校に入られてからいかがでした?」

美容師さんはこう答えた。

「美容系にしか就職できないと確約されていることで、向き不向きが明確に出るよ。私は偶然美容に興味があってかつ向いていただけ。興味があっても向いてないと分かった友達は皆やめたよ。」

美容学校に入った時点で仕事が絞られるのだ。そういえば私は文学部に入る決め手の一つに、「あと四年間で自分の才能を確かめよう」と挙げていたことを思い出した。文学部や大学生活で多くを吸収して、社会に羽ばたかないとと改めて決心した。

 二年次~ゼミや新しい読書との出会い~

二年次の後半に差し掛かると、授業の中にひとつだけ、興味をそそられるものがあった。米文学だ。米文学とは言葉の通り、アメリカの作家やアメリカ英語で書かれた小説や詩のことだ。アメリカは英語の母国であるイギリスよりも圧倒的に歴史が短い。その中でも様々な差別や風潮があり、個性的な作家が山のようにいる。話の内容も、人間関係が複雑に絡み合うものが多い。いわば昼ドラ。三年次のゼミ選択でもその先生のセミを第一ゼミとし、今年度も米文学で卒業論文を執筆する。

 

その先生の授業やゼミでは、作品の中に着眼点をひとつ挙げ、その中で論文を書く形式が主だった。私もそれに倣い着眼点を見つけ、多数の参考文献を探し、論文を執筆した。すると他のゼミ生は、私とは全く異なる着眼点だったのだ。確かに十人十色という言葉もある通り、人間の個性は様々である。それを強く感じた。

 

ある企業のインターンシップに参加した際に、人事の方にゼミの話をした。その際「読書も人間観察のひとつ」と話された。「登場人物や作者、それを読んだ方、三パターンの人間観察ができる」と。それ以来、小さい頃から大好きだった読書の捉え方も少し変わった。昔から読書はドラえもんひみつ道具である「どこでもドア」だと思っていた。私という人間から、様々な登場人物になれる。そう考えていた。その話を受けて、趣味である読書でもあらゆるところに着眼点を置いた。作者の文体や文章の構成法。作者の他作品を読んで作者の意図の予測。登場人物への感情移入。私と同じ作品を読んだ他者の意見。様々な観点から作品を捉えるようになった。より理解が深まるようになった。それを述べた私のブクログはこちら。

https://booklog.jp/users/vintagelementl

文章を読み様々な観点から物事を考えるうちに、関心が多岐に及んだ。アメリカの南北間の格差、南部の社会制度、ジェンダー。国内文学でも心理学や哲学、法学や科学。いつかは裁判の傍聴に参加したいと考えるほどだ。

まとめ

こうして、文学部の役割、教養の役割を知った。文学を専攻することまた教養を得ることで、文学に留まらず様々な分野への興味を抱くことができ、自らの幅を広げられる。他者に感情移入し、気持ちを汲み取れる。確かに理系分野を専攻し、何かを突き詰めることも社会貢献にも繋がり、自らを広げられる。それを他者に広く、分かりやすく伝えることを考えると、文系の出番なのではないか。文系の人間は決して用済みではない。世界全体の視野を広げることを考えると、むしろこれから重要な存在となりうるだろう。文理共々、共栄していかねばならない。