感じて、考えて。

やたら考えやたら書きます。

無数の挫折を超えて

 

はじめに

私は基本、努力が報われた経験に乏しい。挫折だらけである。自分自身懸命に努力しているはずだが、報われない。私も愚かではないので、薄々気づいている。自分の努力が足りていないということと、置かれた場所で咲けているということ。そして全ての努力が報われていないわけではないことに。私が人生通して他者から言われたこと、経験と共に述べていきたいと思う。

人生の振り返り①(挫折編)

小学生

友人の誘いでバスケットボール部に所属していた。友人はバスケットボールのセンスがあって、かつ努力家だった。ただ、自分のレベルを他者に求めるところがあった。私は球技のセンスに乏しく、上達のために部活が休みの日でも母に協力を乞い練習をした。

 

ある日、試合形式の練習をした。私はボールを取りこぼし、持っていたボールをカットされ、チームの足を普段以上に引っ張った。その後友人が涙ながらに言ったことは今でも忘れない。

「お前のせいで負けたんだ。」

すこぶる落ち込んだ。私だって全く努力をしていないわけではない。だがうまくいかない。ただ、逃げる理由を他人のせいにだけはしたくなかった。卒業まできちんと向き合った。

中学生

中学生になっても、他の部活に入る勇気もなかったためバスケットボール部に所属した。上達しないバスケスキル。部活面では相変わらず苦しんだ。ただ小学生の頃と変わったことは、成績の順位が明確になったことだ。入学後すぐの定期考査では全体で十番内に入らないくらい。その次は学年トップ。自分が勉強ができる方だと知った。それからは勉強が楽しかった。夢中で勉強した。母には十番内から落ちたら部活をやめるよう言われた。落ちることは三年間でほぼなかった。

 

高校受験の前のことだった。クラスで苦手な男子に言われたことがある。

「お前は勉強の才能がない。完全に努力。せいぜい地元の進学校レベル。勉強の才能があってお前より勉強してないだろう〇〇は、熊本トップレベルの高校に行けそう。」

善意の解釈をすれば、私の努力を褒める発言なのかもしれない。だが私にはどうしても、私自身を否定されているようにしか思えなかった。自分のことを棚に上げて、私と第三者を比較する。その行為自体が愚の骨頂でしかない。今昔共に努力を惜しまない例の比較相手に対し、こんなことを言われたと八つ当たりする自分にも嫌気が差した。

高校生(勉強編)

昔からの憧れと文武両道を考慮した結果、地元の進学校に入学した。私の地元は、家族全員がその進学校というケースが多々ある。我が家も同じだ。高校の同窓会会報が三冊(私、父、叔母)届く家族である。由緒正しい高校に三年間身を置き、中学の途中で出会った陸上競技と勉学に励んだ。

 

人生を通して憧れていた大学があった。私は物心つく前から読書が好きだった。幼稚園時代、本にまつわることを学ぶなら文学部だと知った。当時熊本市内に住んでいたこともあり、私は熊本屈指の文学部に行くのだと思っていた。だが高校に入ってから初めての模試で、その大学の合格判定はE判定だった。高校入学で安心した私は怠慢していたので、勉学に励まねばと痛感した。

 

駅伝や体育祭に打ち込みながら迎えた受験期。私はその大学の推薦入試受験枠を頂いていた。先生方から「推薦は博打」というお言葉をかけていただいたが、私は推薦に賭けていた。受験期になっても私の成績は上がらないままだったからだ。推薦入試については、人生でトップレベルに努力した。将来の夢に基づき書いた志望理由書の添削、筆記試験対策のための社説六社読み(全国紙地方紙読み比べ)に、放課後や昼休みの面接練習。推薦のことしか考えられなかった一か月だった。

 

推薦入試当日。筆記試験は何とか書き終えた。問題は面接だった。そこで言われたことも一生忘れないだろう。

「他の学科の方が向いてるよ。」

「あなたの話はもういいです。面接を終了します。」

幼稚園時代から憧れていた大学、高校三年間憧れた学科の教授に、この言われようである。面接室で泣かなかった自分を褒めたい。合格発表前日に心ない友人から「期待するな」と言われたのも、合格発表の際は携帯持ち込み不可という決まりも無視した。学校のトイレの個室に入り番号を確認する。もちろんない。共に推薦入試を受け、何も対策をしていないと涼しい顔をしていた友人の番号はあった。その後担任に渡された合格発表が印刷されたプリントは泣きながら破り捨てた。推薦対策、特に面接練習では顧問の先生から教頭先生まで十人の先生にお世話になったし、推薦枠を与えるのは校長先生なので、昼休みを利用して行脚に向かった。職員室や校長室では、多くの先生方に協力してもらったのにと思うと涙が止まらなかった。まだ前期や後期と二度もチャンスがあると励ましを頂いた。切り換えないとと思ったが、その日中場所を問わず泣き続けた。

 

何とか切り換えセンター試験対策に集中し、迎えた年末。志望校を会場とした模試が行われた。弁当を食べながらふと友人が私に何かを告げようとした。瞬間、私は嫌な予感がし、思わず口にした。

「私は勉強してるのに成績悪いよねって言いたいんでしょう?」

友人は気まずそうな顔をして謝りつつも頷いた。言わせる私も大概だが、まず口にする辺りに嫌悪感を覚える。しかも場所は私の志望校。それも相まってダメージは深かった。迎えたセンター試験当日は、彼女の言う通り振るわず、得意科目で大幅に失敗した。志望校の判定どころか、推薦に落ちた際に担任にここなら合格圏内だと薦められ知った大学の判定さえもEだった。同級生が大声で判定結果を楽しそうに話す。その声さえも憎むと同時に、そんな自分が嫌いになった。

高校生(部活編)

中学の途中、体育の先生に見染められ、中学二年生と三年生の夏から冬にかけて、駅伝の練習に参加していた。陸上競技に惹かれていった。高校の選択も、昔からの憧れや勉学もあったが、地元で一番陸上や駅伝に力を入れていることを重視した。中学時代、陸上は本当に楽しかった。努力すればするほど記録は縮んでいった。人生で初めて努力が報われることを知った。それが高校でも続く、高校では陸上一本にするからもっと楽しいだろう、そう思ってやまなかった。

 

序盤は楽しかった。故障に悩む時期もあったが、走れば走るほど記録は縮んだ。漫画の世界にしか存在しないと思っていた「セカンドウィンド」も経験した。高校一年生の冬に行われた駅伝では1区、のちにキャプテンとなり、高校の合格発表翌日から共に努力していた友人はアンカーを務めた。二人でスタートとアンカーを務めることは、ずっと約束していたことだった。

 

全ては、大会後母に言われたことから始まった。

「あんたいつもと走り方全然違ったよ。どこか怪我してない?」

確かに脚に若干の違和感を覚えていた。すぐにテスト期間に入り部活が休みになるから、安静にした。テスト期間に全く走らないのは初めてだった。テスト開け最初の練習は10kmペース走。今までは最後まで先頭に食らいついていた。しかしその日は違った。5kmを迎えた途端、尋常でないほどに息が苦しくなった。何とか5km走ったが、走り切った後は過呼吸になった。唐突の不調は数か月続いた。

 

数か月経っても治らない。そういえば生理が半年以上訪れていない。過度の食欲なのに、体重の減少が著しい。それが気がかりだった。もしやと思い母と産婦人科に向かった。お医者さんはこう告げた。

「当院に来られる患者さんには、甲状腺に異常がある方が何故か多い。紹介状を書くから糖尿内科を受診して。」

結果、甲状腺機能亢進症(バセドウ病)だと分かった。全てバセドウ病の症状だった。お医者さんは私に、甲状腺の数値が安定するまで運動をしないよう伝えた。最長半年かかるとのことだった。当時高校二年生のGW明けだったので、その半年間には2度目の高校総体や新人戦、夏の合宿があった。今からという時期に何もできない。私にとって走ることは、人生で初めて「自分のために」努力したもので、それが100%返ってくる唯一無二の存在だった。私から走ることさえも奪うのかと、甲状腺を何度恨んだことだろう。

人生の振り返り②(切り替え編)兼まとめ

この無数の挫折を通して、様々なことを学んだ。まず私には球技が向いていない。それを踏まえ中学時代には、オフィシャル(バスケの審判補佐)の仕事が全てこなせるようにした。試合の際もチームの記録員を自ら勤めた。チームに少しでも貢献するにはどうすべきかを考えた、私なりの結果だった。

 

勉強に関しては、根本的に努力不足、または勉強法が誤っていたように思う。センター試験対策を振り返ってようやく気付いた。それを踏まえ、受験直前に担任から薦められたもののE判定だった受験校の対策をした。結果合格。勉強法をようやく知れた気がした。今の大学ではゼミに苦しみながらも、英米文学の魅力を知った。それは本来の志望校ではできないことだ。

 

陸上に関しては、バセドウ病から復帰後何とか駅伝メンバーに返り咲いた。前年1区を務めた駅伝では2区だったが、三人抜きを達成した。走ることは、私を完全には見捨てていなかった。

 

私は今、就職活動の最中である。中学時代から憧れ、大学の推薦入試で話した際には否定されてしまった夢を抱き続けている。その会社へのエントリーシートを友人に読んでもらった際には「熱量がすごい」というコメントまでいただいた。最大限の努力や熱意をぶつけるときだ。その想いが叶うといいのだが。